東浩紀氏は単に年号や人名のように、哲学の概念を今の固定されたものとして考えていないというところが、齟齬の本質だと思います。 これは『訂正可能性の哲学』に書いてあることですが、あの本ではコミュニケーションの不完全性から哲学を論じています。つまり、あらゆる言葉はコミュニケーションの不完全性によって規定されており、言葉の使われ方(言語ゲーム)は常に他者による異議申し立ての可能性に曝されている、ことであり、それは哲学の概念も同様です。 東氏は言葉の意味というものが、まさにその言葉が使われる一回のコミュニケーションに支えられている、という事実に注意しています。それは柄谷の「教える-学ぶ」関係の議論を引き継いでいるものだと思いますが、言葉の意味というものは、それがコミュニケーションによって相手に伝わることによって初めて成立するものということです。つまり、意味というものがコミュニケーションの前にあるわけではなく、それが「どこかの機関で決められたものではない」という表現につながるのだと思います。 ただし、これは必ずしも言葉、哲学の概念をどのように使ってもいいということは意味しません。それは先ほど述べたように「他者による異議申し立て」があるからです。そのようにコミュニケーションが不完全であり、言葉の使われ方が不安定であるからこそ、言葉の意味というものは「訂正可能」なものであり、それゆえに哲学は(概念を訂正していく営みとして)持続性を持つ、というのが『訂正可能性の哲学』の根本的な主張です。 東氏が話を取り合わなかった理由というのは、端的に確定記述が東氏の述べているもので問題がないからだと思います。つまり、訂正する必要がないからです。 どういうことかといえば、東氏は結局のところ確定記述は意味を確定させることができないということを強調しているだけだからです。つまり、夏目漱石の例で言えば、「夏目漱石はXである」のXに、「男性」や「『吾輩は猫である』を書いた人」をどれだけ代入してもそれが「夏目漱石」である、と言うことは原理的にできない、ということです。そこから東氏は「Xに無限に代入されたものとしての確定記述」と「固有名」を対比して自身の哲学を進めていきます。 まとめると、①「確定記述」という言葉の使われ方は固定的ではない、②またその使われ方で問題ない、ということです | マシュマロ
鈴木盲点さんの回答「こちらが先ほど回答したメッセージの前半です。」