もちろん、哲学の概念を固定化された意味として学習することは重要だと思います。『訂正可能性の哲学』を勧めたのはむしろ、そのような学習の肯定も含み込んだ上で、それを訂正していくところに文系的な知の意義を見出していると思ったからです(東氏は哲学におけるある種の権威主義的な状況を肯定しています)。間違った意図で伝わっていたら申し訳ありません。 その上でひとつ応答をさせていただくのですが、私は言語哲学を勉強しておらず、柄谷→東ルートで確定記述/固有名の議論を知ったので、少しその辺りについて補足しようと思います。 私は言語哲学において確定記述が固有名と同じで唯一の対象を指し示すものとして使われている、ということを知らなかったのでその部分について指摘できなかったのですが、そもそも東氏は確定記述は固有名とは違って唯一の対象を指し示すことができない、ということを言っています。 これは柄谷行人の議論を引き受けているもので(たしか)、その意味で東氏の言う「確定記述」はまさしく「ハイブリッド」な意味で使われているのではないでしょうか。 この部分の議論は柄谷の(数学的には誤った)ゲーデルの不完全性定理の解釈や、ジジェクの象徴界-現実界の議論が前提とされていると思います。 長くなってしまい申し訳ありません。 | マシュマロ
鈴木盲点さんの回答「私は東先生の議論を知らないのですが、議論の流れとしては「一般にラッセルのいう確定記述は固有名のように唯一の対象を指し示すとされる。しかし私の考えではそうではない」となっていませんか? 動画と貴方のお話からそう理解しました。しかし東先生はその前段のラッセルらの議論の説明を誤っていた…